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株式会社新潮社

敵国の女性と愛を誓った帝国海軍少佐がいた! 実在の日本軍人の史実を掘り起こし、明治日本の戦争と平和を描く感動の物語『ロシアよ、我が名を記憶せよ』、新潮文庫から書下ろし刊行!

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■書籍内容
 大国ロシアに日本が真正面から戦いを挑んだのが、日露戦争でした。なかでも海軍軍人・廣瀬武夫の勇敢な戦いぶりは、戦死直後から大きく称賛され、日本で知らぬ者はいないほどでした。
 廣瀬には愛を誓ったロシア人の女性がいました。彼女の名はアリアヅナ。露都ペテルブルグのコヴァリスキー海軍中佐の令嬢でした。結婚して東京で暮らす夢もふくらむほど、二人は固い絆で結ばれていましたが、しかし戦争が迫ります。「反ロシア」一色に染まる当時の日本で、幸せに暮すことなどできるのか。二人は愛と再会を誓い離れ離れとなったのです……。

 アリアヅナと廣瀬の関係は、司馬遼太郎『坂の上の雲』でも触れられていますが間違いもあり、本書は、知られざる史実を正確に掘り起こし、物語に仕上げた歴史小説です。

■作家・須賀しのぶさんに〈帯コメント〉をいただきました。

〈「軍神」の名に封じられた人間・廣瀬の本当の声を聞いてほしい。〉

廣瀬が戦死したのは、1904年3月27日。きわめて堅固なロシアの軍港「旅順港」を攻略する特殊作戦においてでした。後日、廣瀬の最後の戦いを聞かれた機関長の栗田は、意外なことを話し出します。
「福井丸で突入するまえでしたが、指揮官は船橋の壁にチョークでなにやら大きなロシア文字を書きつけておられましたね」
廣瀬が何を書いたのか。ロシア語を読めない栗田が訊ねたところ、詳しいことを教えてもらえなかったといいます。ところが、じつは廣瀬の言葉は、ペテルブルグに伝わり、新聞などで広く報じられていました。その言葉とは、

「親愛なるロシアの水兵たちよ、私の名を記憶せよ。私はタケオ・ヒロセ海軍少佐である。貴軍港を閉塞せんと再度こここにきた」

この真っ直ぐなメッセージをみたロシア将校らは、うたれたようにその前に立ちつくし、感銘をうけたといいます。砲弾の雨を覚悟した作戦の直前に、何のために書き残したのか。それはおそらく、一人の軍人として最前線で敢闘した証。そして、まぎれもなく、〈いかなる不法の侵略も許さない〉というメッセージでした。そこには、アリアヅナへ届けとばかりの熱情と、戦争への怒りがこめられていた。本書のタイトルも、この廣瀬の言葉から借りたものです。廣瀬はアリアヅナ宛に遺した最後の手紙にも、こう書いています。

「傲(おご)れる軍国の力を以て不法の侵略を行ふもの、それがあなたの国であることを私は悲しむ」

この廣瀬の言葉を、当時のロシア国民はどのように受け止めたのでしょうか。いや、今のロシア国民にも通じる言葉かもしれません。その後物語は、日本の連合艦隊とロシア太平洋艦隊との大決戦を迎えます。旗艦三笠の主砲が火を噴き、轟沈する敵艦隊。息を呑むシーンの連続は、あたかも廣瀬への弔い合戦のよう。ここにロシア太平洋艦隊はすべて撃滅されることになるのです。

戦い終わって……。アリアヅナ宛の手紙が日本で公になったのは1924年、廣瀬の死から20年も経ってからのことでした。手紙を託された加藤寛治海軍少佐はなぜ公表しなかったのか。それは、廣瀬が「軍神」としてまつりあげられてしまったからでした。「軍神廣瀬中佐が敵国の女性を愛するなど、当時の国民感情では、あってはならないことだった」と、著者はあとがきに記しています。ペテルブルグ駐在中は多くのロシア人に親しまれた廣瀬。「戦争」とは何なのか。「敵」とは誰か。廣瀬武夫の心は、明治日本の戦争と平和を問い、いまもまだ生きつづけているといっていいのです。

■著者紹介
兵庫県加古川市出身。京都大学文学部卒業後、産経新聞社に入社。大阪本社社会部長、論説委員長などを歴任。1987(昭和62)年、ノンフィクション『原告・宮津裕子』を発表。1992(平成4)年、ソウル五輪を題材にした小説『ソウルに消ゆ』で日本推理サスペンス大賞を受賞(筆名・有沢創司)。以後、『ガイアの季節』『三たびの銃声』『終りなき伝説』『天誅の剣』などを刊行。その他、日本の古代史をノンフィクションの手法で描く『古代からの伝言』や、『遥かなる大和』『青雲の大和』『大和燃ゆ』の古代史三部作等の著作がある。

■書籍データ
【タイトル】ロシアよ、我が名を記憶せよ
【著者名】八木荘司
【発売日】7月28日
【本体価格】649円
【ISBN】978‐4‐10‐103182-8

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