トレンドニュースサイト STRAIGHT PRESS【 ストレートプレス 】

坂井市役所

【福井県坂井市】丸岡城 曲輪から江戸前期の図面通り「土橋」発見

このエントリーをはてなブックマークに追加

天守から東160mの「搦手口」跡、土橋側面の石垣が出土

現地説明会に130人、遠くは島根、神奈川からも

丸岡城の内堀内で見つかった「土橋」の現地説明会で、学芸員からの発掘状況の説明に聞き入る大勢の見学者たち

現存十二天守のひとつ、重要文化財の「丸岡城」城郭跡で発掘調査を行っている福井県坂井市教育委員会は、天守東側に位置し、城郭の裏口「搦手口(からめてぐち)」に通じる内堀の土橋の遺構を発見したと、発表した。江戸時代前期の古絵図にも土橋が描かれており、市教委によると、その存在が初めて現地で裏付けられた。9月19日には一般市民を対象に現地説明会が開かれ、遠くは島根、神奈川、埼玉県からも含め130人の見学者を集めた。

江戸時代の正保年間に描かれた「越前国丸岡城之絵図」。赤い矢印部分が今回出土した土橋部分

「城郭を肌で感じた」「相当のスケール感」と見学者から声
 丸岡城は現在、お天守が建つ城山周辺がメインの見学コースになっているが、石垣づくりの土橋が天守から離れた位置に造られていたことが改めて確認でき、見学者からは「五角形の内堀を持つ城郭のスケール感が生で感じられた」などの感想が上がっていた。


発掘トレンチの位置関係。上から見た石垣の様子。土橋北側面となる赤いラインは、掘られていない部分も含め、東西同じ方向に石垣がつながっていることを示す


トレンチ1.から出土した石垣


トレンチ2.から出土した石垣

トレンチ2カ所 東西同じ方向に並んだ石垣、土橋補強か 絵図通りなら27mも

 今回発掘調査が行われたのは、天守から東に約160m付近で、丸岡城観光交流センター(マチヨリマーケット)の北側。今年3月まで旧一筆啓上茶屋やトイレが建ち、その後取り壊されていた。もともと城の裏口に当たる「搦手口」付近で、江戸時代の正保年間(1644~48)に城郭を描いた「正保城絵図」の中の「越前国丸岡城之絵図」には、内堀に架かる「土橋」が描かれていた。【絵図参照】
 今回は2カ所のトレンチ(調査坑)=「南北13.5m×東西5.5m」=【写真ナンバー1.】、「東西7.5m×南北5m」=【写真ナンバー2.】で発掘し、地表から最大2.5m掘った地点辺りから、それぞれ石垣が1.長さ5mと、2.長さ7mに渡って出土した。2カ所の石垣は、並びが同じ東西方向で築かれており、つながっている=【写真の赤いライン】と考えられ、土橋の北側のり面を補強していたとみられる。
 土橋は幅が約4mあったが、南側の石垣は発見できなかった。市教委では近代になって内堀を埋め立てた際に壊されたと推測している。絵図から読み取ると、土橋の長さは東西に約27mあったと推察されるが、そのうち約10m分が出土した格好。
お天守周辺に見られない「緑石凝灰岩」の石も 後年に積み直しか

土橋があった部分の説明を聞く参加者。土橋の南側からは石垣は出なかった。


天守(後方のホロがかかった建物)から約160mも東に離れた地点に土橋があった

 曲輪の発掘は今回で6度目、いずれの遺構も絵図どおり
 出土した石垣は、内堀の底と見られる地点から50~60cmの高さで、使われていた石は大きさは幅約30cm、高さ約50cmほどの大きさ。さらにこれら大きな石に内側に直径10~20cmの丸みを帯びた「裏込(うらごめ)」石が数多くみつかり、裏込を施すことで石垣に安定性を持たせたり、排水効果を高めていたと思われる。大きな石の中には「緑色凝灰岩」が複数見つかっており、これについて調査担当の小林美土里学芸員は「この石は、丸岡城天守周辺の石垣ではほとんど使われていない。(お天守とは別に)後年、積み直しされたものかもしれない」との見方を示した。またトレンチ2.で出土した石垣の東端では、基底の石を前にせり出させ、支えとする構築技法「顎(あご)止め」も確認された。
 今回、正保年間の古絵図どおり「土橋」が見つかったことで、この土橋が築かれた時期が、正保年間か、それ以前と予想されるが、正式な年代までは不明。坂井市教委は丸岡城は戦国期の天正4(1576)年に築かれたとされるものの、土橋がこの当時にあったかどうかは「分からない」としている。
 丸岡城の発掘調査でこれまで内堀より内側の曲輪(くるわ)部分での調査は、平成22(2010)年度以降でこれで6カ所目となるが、内堀より内部には、現在も一般住宅街や平章小学校の校舎、市体育館など公共施設が建っているため、なかなか広い範囲で発掘調査が進まないのが現状。
 ただ、過去5回の発掘調査【下の城郭発掘MAPを参照】で、内堀の石垣や、隠居曲輪(いんきょぐるわ=殿様が隠居後生活していた館跡)の石垣、二の丸曲輪の石垣と土塁の痕跡などが、やはりほぼ絵図どおり見つかっており、今回の土橋発見によって、五角形の城郭エリアは、ほぼ絵図どおり曲輪跡(くるわあと)や石垣跡、堀跡などの遺構がそのまま残っている可能性が高い。

丸岡城の過去5回の発掘調査(曲輪部分)の調査年度と調査結果

■平成22(2010)     ・明治時代以後に修復された石垣を検出。石垣の高さは1.2ⅿ程度で、当時
             の堀の水深もさほど深くなかったのではないかと考えられる。
■平成26(2014)     ・隠居曲輪の石垣を検出。石垣は明治時代以後に修復されているが、一部
             に江戸時代の石垣も残っていたことから、石垣の位置は江戸時代のまま             
             であると考えられる。
■令和3(2021)     ・内堀の石垣と堀の底面を検出。石垣は2~4段程度残っており、もう少
             し高かったと考えられる。また石垣の位置は、絵図に描かれている位置と
             ほぼ一致している。
■令和4(2022)【左上】 ・曲輪の石垣と土塁の痕跡等を検出。曲輪の痕は、絵図に記述されている位
             置とほぼ合っていることから、絵図の正確性が確認された。
■同4(2022)【右上】  ・堀跡を検出。内堀の外側石垣は、現在の歩道範囲内に収まる可能性が高い
             と考えられる。

中井・滋賀大名誉教授「丸岡城の広大な水堀の一部」「長大な土橋の構造明らかに」
 「土橋」の出土について城郭考古学の専門家である中井均・滋賀県立大学名誉教授は現地を見たうえで、「丸岡城の大きな特徴である城山山麓に設けられた広大な水堀は近代になって埋められてしまい、絵図には記されているもののその構造はまったくわからなかった。今回の土橋の検出によって堀に架けられた位置が特定できたことは、さらに長大な土橋が石垣によって築かれた構造を明らかにできた意義は大きい」とコメントを発表した。
 一方、現場説明会で学芸員の説明を聞いた市民からも「城郭全体の全容が見たい」との声が上がった。「丸岡城は天守だけ見て帰ってしまう観光客も多いが、こうして離れた場所からも石垣が出てきて、それを生で見ると、本当にスケールの大きな城だったと実感できる」(40代の男性)などとの声や「正保の絵図ではこの土橋につながる形で、城郭によくみられる桝形虎口(ますがたこぐち)があったはず。一筆啓上茶屋の跡がさら地になったこともあり、坂井市教委にはさらに発掘範囲を広げ引き続き調べてほしい」(80代男性)などの今後への期待の声も上がっていた。
 今回の調査は、一筆啓上茶屋に隣接してあったトイレ跡の地下の遺構を調べたもので試掘を経て8月24日から発掘を進め、9月内には終了する予定。今回見つかった土橋跡や石垣は、保護するために埋め戻される。

丸岡城とは… 別名、霞ヶ城とも呼ばれ、平野の独立丘陵を利用してつくられた平山城。春の満開の桜の中に浮かぶ姿は幻想的で、ひときわ美しい。
 戦国時代の天正4年(1576年)、織田信長の家臣である柴田勝家の甥・勝豊の築城と伝えられる。標高27mの独立丘陵を本丸として天守を築き、江戸時代にはその周囲に二の丸と内堀、その外側に三の丸と外堀を巡らせていた。特にきれいな五角形型をした内堀は全国に残る城郭を持つ城の中でも珍しい。
 丸岡城天守は、江戸時代以前に建てられたが、その後、修築などを経て、江戸時代前期(寛永年間)から現在まで当時の姿を残し、現存12天守のひとつに数えられる。戦後の昭和23(1948)年の福井地震により石垣もろとも完全に倒壊したが、天守の材料や石垣などの主要部材の多くを再利用し、昭和30(1955)年、修復修理された。現存12天守の中で、完全に倒壊した状況から修復された天守は唯一丸岡城天守のみ。
 現在、立ち続けている古式の風格のある姿は、消滅の危機という困難な道のりを経ても立ち上がり、復興してきた証しであり、奇跡の修復城とも呼ばれる。

企業プレスリリース詳細へ
PR TIMESトップへ

最新情報をXで受け取ろう!
前の記事
一覧へ戻る
次の記事