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豊橋市

【愛知県内初・東海地方で3例目】古代・中世の東海道を豊橋公園内で発見

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 愛知県豊橋市の豊橋公園東側エリアで行われている多目的屋内施設整備に伴って発掘調査を実施している飽海(あくみ)遺跡で、古代・中世の東海道と考えられる遺構が発見されました。
 平安時代から戦国時代(9~16世紀)にかけて存続した道路の遺構で、古代の東海道が発見されるのは愛知県内では初めて。東海地方では静岡市の曲金北(まがりかねきた)遺跡、可能性が指摘される三重県鈴鹿市の平田遺跡に次いで3例目です。
 今回、古代・中世の東海道が発見されたことで、東海道のライン上にある、すでに調査が進んでいる各遺跡(建物・ムラ跡など)を結び付け、その役割を再評価できる可能性があります。

発見された古代・中世の東海道


発見された古代・中世の東海道

古代東海道とは
 古代(奈良・平安時代)には「駅制(えきせい)」という中央(奈良の平城京や京都の平安京)と地方を結ぶ交通システムがありました。各地の駅家(うまや)に配備された駅馬(えきば)を乗り継ぎながら中央と地方を往来するもので、駅馬が運用された道は駅路と呼ばれました。
 日本国内には東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7つの駅路(7道)がありました。東海道は奈良県の平城京や京都府の平安京から滋賀県や東海地方、東京都などを通り、茨城県のあたりまで続いていたことが分かっています。駅制は、大宝元(701)年以降に体系的に整備されたと考えられています。

駅路の構造
 駅路は、一般的には、両側に側溝を掘って路面をならした構造をとり、奈良時代の道幅は9~12m程度でした。駅馬が短時間で往来できるように、地形や地質を問わず一直線に設けられています。したがって小丘陵では、山や丘陵を切り開いた切通しが造られ、低湿地など地盤が軟弱な場所では、手の込んだ地盤改良工事を行うことがありました。
 駅路では30里(約16km)ごとに駅家が設けられて駅馬が乗り継がれ、最速では1日に10駅を移動しました。東海道には各駅家に10匹の駅馬が配置されていました。

駅路の性質
 駅路の設置は、中央と地方を最短距離で結ぶことを目的にしています。情報の伝達だけでなく、税を納めるための搬送経路になるなど、中央と地方の物流を担った幹線道路でもありました。現代で例えると、国道よりも高速道路の概念に近いといえます。
 また多くの駅路は、国府(こくふ。三河国など、国を統治する機関)や郡家(ぐうけ。渥美郡や八名郡など、郡を統治)など、各地方の公的政治機関の近くを経由しています。

飽海遺跡の古代・中世東海道

古代東海道―調査区内を北西-南東に貫く一直線の道路跡―
 豊橋公園内の多目的屋内施設整備に伴って実施されている発掘調査地は、全体で約17,900平方メートル と広大です。令和6年2月から発掘調査を開始し、令和9年9月ごろに終了予定です。
 今回見つかった古代・中世の東海道は、調査区内を北西から南東に一直線に貫いており、確認された長さは120m、各側溝の間の幅は約9m、側溝の深さは古代のものが10~15cm程度です。さらに、同じ豊橋公園内にある陸上競技場を整備する際に行われた発掘調査(平成29(2017)年実施)や、豊橋公園の南東にある東三河県庁を建設する際に行われた発掘調査(平成4~5(1992~1993)年実施)の結果を照らし合わせることで、一直線に270m以上伸びていることが判明しました。

 飽海遺跡は、中世・近世には吉田城内で、藩士たちの武家屋敷地となるなど、古代から現代まで利用され続けた土地のため、後世の開発の影響を受けています。古代東海道は、残存状態が良くない浅い側溝がとぎれとぎれに続いて、調査区をほぼ貫通するかたちで発見されています。
 古代・中世の道路には、道路幅を示すため、道路の両側に側溝が設けられています。今回発見された側溝に挟まれた道幅は約9mあり、古代の東海道としては一般的な規模です。
 側溝の出土品から、今回の道路は、最も古いものが平安時代前期(9世紀)に設けられたと考えられます。国内で駅路が最初に整備されたのは7世紀後半から8世紀ですが、平安時代には駅路の多くが再整備・改変をされたことが分かっており、その時の東海道と考えられます。

9世紀の灰釉(かいゆう)陶器

古代の飽海遺跡とその周辺
 飽海遺跡では、奈良時代(8世紀)の建物跡などの遺構が、豊橋公園東側エリアを中心に、現在の飽海町や豊橋警察署付近などに渡って広域で確認されています。出土品の中には墨書された土器や硯が多数確認されていることや、公的な機関を示す優れた出土品があることから「渥美郡家(あつみぐうけ)」跡と推定されています。

硯(左)と「又吉」と読める須恵器(右)

 さらに10世紀には、この付近に伊勢神宮領の飽海神戸(あくみかんべ)が設定されました。また、この付近には豊川の渡河地点であり、平安時代中期(10~11世紀)には渡し舟の「しかすがの渡し」がありました。豊川の対岸には「渡津駅家(わたつのうまや)」が置かれていたことが文献資料から推定されており、現在の豊川市五社稲荷神社に近い坂地(さかち)遺跡付近にあったと考えられています。今回の古代東海道は、これらの歴史事実をつなぐ重要な発見といえます。
 なお、承和2(835)年の太政官符(中央からの正式な行政命令文書)に「飽海川(豊川)と矢作川の渡船を2艘から4艘に増やすこと」とあり、これは先述した古代東海道の再整備に連動すると考えられます。

中世東海道
 洪水などの自然現象によって 豊川の流路が変化したことにより、平安時代末から鎌倉時代の12~13世紀前半ごろまで、東海道は一時廃れ、豊川の渡河地点は飽海遺跡より上流の豊川市古宿町付近に移動しました。しかし飽海遺跡では伊勢神宮領の飽海神戸が存在したためか、道路自体は存続していました。
 鎌倉時代中ごろの13世紀半ばに、再び豊川の流路が変わり渡河地点が元に戻ると、交通ルートとしての東海道(中世東海道)が復活します。飽海遺跡の中世東海道はわずかに折れ曲がるなど、直線性は徐々に失われ始めた様子がうかがえます。この間、幹線道路として石敷き路盤を伴う舗装が行われながら、道路自体は戦国時代の16世紀まで存続しました。
 吉田城が前身の今橋城と言われた頃は、この東海道がまだ使用されていたと考えられます。その後の吉田城整備や城下町の整備などの中で、微妙にルートを変更しながら近世の東海道に姿を変えていきました。
 現在はまだ見つかっていませんが、中世東海道から今橋城(吉田城)へ入城するルートも存在したと考えられます。

武家屋敷の柱や井戸の跡

古代・中世の東三河平野部の基軸線
 今回見つかった古代・中世の東海道は、主軸方位が南北ではなくN-39°-W(北を基準に西へ39度傾いた方角。北西からやや北より)となります。この方位は、古代・中世に設けられた条里制の地割と一致し、今回見つかった東海道を延長すると、北西は古代三河の中心的な役所である「三河国府」に、南東は丘陵に挟まれた狭隘部で、近世東海道も通過した「火打坂」に達します。このことから、古代・中世の東海道は東三河平野部の広大な土地利用計画の基軸線も兼ねていたと考えられます。

有識者のコメント
 今回の発見について、古代交通史が専門の奈良大学文学部 文化財学科 近江俊秀教授は、「検出された遺構は、古代東海道の可能性が極めて高く、疑念を持つ要素がない。全国的に駅路を改変するようになる奈良時代後半以降の、9世紀(平安時代前期)の道路跡である。また、豊川の渡河点と接続し海上交通との関係が推察される点や、調査区内だけでなく、延長した沿線の地形や遺跡に矛盾が無い点も注目できる」とコメントしています。

今回の発見の重要ポイント

 今回、古代・中世の東海道が発見されたことで、東海道のライン上にある、すでに調査が進んでいる各遺跡(建物・ムラ跡など)を結び付け、その機能や存在意義が再評価されつつあります。 遺構そのものも貴重なものですが、各地の遺跡を結び付ける遺構としてより重要な役割を持っており、今後につながる発見と言えます。国府から西三河へのルートや、火打坂を越えた東側、静岡県方面とどのようにつながっていたのかは、まだ遺構が見つかっていないため、調査の進展が期待されます。
 今回の調査成果は、令和13年度に報告書として発行されるほか、講演会や展覧会などで情報を出していくことが検討されています。

発掘調査現地説明会(豊橋市民向け)
調査成果の説明や、出土品の展示などを行います。
日時 令和8年7月25日(土)10:30、14:00(60分程度)
会場 多目的屋内施設整備 発掘調査現場(豊橋市今橋町3-1、豊橋公園)
参加 どなたでも。参加無料、事前申込み不要
問合せ 豊橋市文化財センター(所在地/〒440-0897愛知県豊橋市松葉町三丁目1番地、電話番号0532-56-6060 ※平日8:30~17:15)
※可能な限り公共交通機関でお越しください

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